TAKE IT LIKE A MAN - 和訳 ボーイ・ジョージの自叙伝 第三章
第三章は、ジョージ・オダウド少年が小学校へ入学します。
相変わらずのジョージ節です。
CHAPTER 3
第三章
僕は新品のパリッとした制服を、グレーでフランネルの半ズボンと、揃いのジャンパー、白いシャツ、学用ネクタイ、それと帽子をぐるぐる巻きにした。
他の子たちはそれぞれ、名札を自分の服に縫い付けていた。
なぜ、僕はそうじゃなかったのか不思議だ。
多分、母さんは僕の服をよそへ譲るつもりだったからだと思う。
それは僕の、ミドル・パーク小学校での最初の日のことだった。
クラスのみんな泣くか、叫んでいた。
そこには、鼻水を垂らした中国人の男の子がいた。
おかげで僕は、自分の瓶入り牛乳を飲めなかった。
だから、鼻をすすったり、鼻を出しているその子を、出来るだけ視界に入れないようにしたんだ。
その子は大抵、小学校では僕と同じクラスだった。
そして6歳になるまで、彼は鼻水を垂らしたままだった。
小学校の、最初の3年間は気楽なもので、絵を描いたり、砂場で遊んだりしていた。
先生は、いつも膝をすりむいたり、泣いている僕たちに、お母さんのように接してくれた
「まあ、みんな。今までで一番上手ね」
僕たちが長ズボンを履くくらいに進級する頃、物事は徐々に悪くなっていった。
僕の担任は、ずんぐりむっくりした女性で、唇が薄く、冗談の通じない、暴君から先生になったような人だった。
突然、僕たちは成長することと、急に態度を改める事を義務付けられた。
この、児童から生徒への変化は、まるでバケツで冷たい水を浴びせて朝起こされるかのようだった。
読み書き、算数。
こんな制度の急変に、成長途中の子どもは目を回した。
僕はまったく集中できなかった。
頭の周りに幾何学模様がくるくる回り、理解できなかったんだ。
未だに何だか分からないよ、どうでも良いけど。
分かったことは、ピタゴラスはベジタリアンだってこと。
直角三角形の斜辺は、神はご自身でお求めになる。
成績が落ちているのを理解しなかったにしても、僕は何も考えなかった。
学業の面では、僕はやる気がなかったんだ。
今だって、科学技術に対しては同じだし。
購入から5年経って、ようやく洗濯機の使い方を覚えただけ。
それがどう動くのか仕組みに没頭するよりも、床に放り投げてしまいたいよ。
僕は創造力があった。
芸術を愛し、英語や(文法ではなくて)、小説や詩を書いた。
もちろん、誰が教えても絶望的であっただろう科目がいくつかはあった。
そんな時は、そこで何かアイディアが無いだろうかと思いながら授業を受けていた。
嫌いな科目を僕たちに受けさせるのは無意味だといつも思っていたんだ。
僕は水泳でトップの賞を取り、チームのメンバーに選ばれた。
彼らがもっと真剣に取り組んで欲しいと僕に求めたとき、僕は逃げ出した。
選抜に勝ち残るだなんて、興味が無かったんだ。
もし君が、スポーツが得意だったなら、君は脳死状態になれるだろうし、そんな君をいっそう、学校は誇ってくれるだろう。
「もっと先へ、もっと前へ」
ミドル・パークの学校は、僕の家から歩いてたった3分の所にあった。
そのせいで、僕たちはいつも遅れて行った。
僕たちを起こして、ベッドから出すのは難題だ。
僕らは全員、朝が大っ嫌いだった。
くさい息と、むくんだ顔のまま、朝食のテーブルの周りでくだらないことで言い合いをしては、怒鳴りあっていた。
母さんは僕たちに、ポリッジ(訳注 オートミールのお粥)を作ってくれた:
いつも一貫してポリッジだったけれど、母さんの気分次第で変わることもあった。
僕はクリーミーでなめらかで、てっぺんに砂糖をたくさん振りかけてあるのが好きだった。
しょっちゅう、誰が最初に牛乳を使うかで奪い合いの喧嘩になっていた。
「母さん、母さん、牛乳がもう無いよ」
そのうち一人が、頭をベシッと叩いた。
「騒々しいったらないね、静かにおし。朝食を食べたら、学校に行くんだよ」
僕は学校にお弁当を持って行きたかった。
他の子たちみたいに、チーズのサンドウィッチと、チョコレートダイジェスティブが、タッパーの容器に入ったやつを。
母さんは、お弁当まで手が回らなかった。
学校給食は無料で「極めて適正」だった。
だから僕はお弁当の代わりに、ブロークン・ビスケットを詰め合わせた大きな袋を学校へ持って行ったが、それは送りで付き添っていた母さんを非常に悩ませた。
▼参考画像。
ブロークン・ビスケット。袋入りもある。
僕は学校に行く途中でおもらしをして、家に戻らなければならないのが、とても恥ずかしかった。
オダウド家は、ご近所だけでなく学校でも悪評が立てられていた。
先生は僕たちに目を付けていた。
長兄のリチャードの、普通ならざる経歴のおかげで、僕たちは何に対しても咎めたてることとなった。
母さんはいつも、学校に電話を掛けていた。
ある朝、ジェラルドとデヴィッドは全体集会のとき、みんなの前でムチで打たれたんだ。
僕は座って見ていなければならなかった。
母さんは校長先生のところへ勢い込んで来た。
校長先生は、母さんをなだめようとして「祖国を思い出してください」と言った。
(訳注:"Remember the Old Country"が原文。何を意味するのか?)
母さんは先生に言った。
「私の前で『祖国』と口にしないで下さい。もし、私が淑女でなかったら、このハンドバックであなたを打っているところですよ」
僕がクラスみんなの前で、ホッブス先生に対して「失せろ」と言ったときに、先生から平手打ちをされた。
余りにも強く打ったものだから、くっきり赤々とした手形が残った。
子どもの頃から、僕は敏感肌だった。
誰かが僕を軽く叩いただけで、たちまち「みみず腫れ」になってしまい、予想以上にひどく見えた。
ホッブス先生は泣き叫び始めた。
僕は先生に申し訳なく思ったけど、盛大にひと悶着起こす方を選んで、トイレに鍵をかけて閉じこもった。
オダウド家は、大家族で、結束の強いアイルランドの家族であると言われた。
僕ら家族を親密にした唯一のことは、スペースの欠如、つまり家が狭いことだった。
今まで一度も、まともな休暇を一緒に過ごしたことは無かった。
僕たちが海辺に行けば、決まって雨が降った。
僕は砂浜なんか大嫌いだ。
砂が服の中やサンドウィッチに遠慮なく入り込んで来るし。
お日さまも出てないのに、砂浜に座り込んでバカみたいだ。
僕はいつも誰かを探して、時間を無駄に過ごした。
僕たちはマーゲートにある、ドリームランド遊園地へ行った。
全部乗るための十分なお金が無かったから、乗り物に乗るには順番を待たなければならなかった。
訳注)2019年現在、まだ運営している。
▼マーゲートのドリームランドのホームページ
https://www.dreamland.co.uk/
乗り物に乗っている時、僕はおなかの辺りをぐるりと回転したので、ポケットのわずかなお小遣いをバンパー・カー(訳注:ぶつけあって遊ぶ電気自動車)に全部落としてしまった。
僕ら男の子は、常にお互いをしつこくからかっていた。
誰かは、やり過ぎていたくらいだ。
誰一人として、そっとしておくという度量を持ち合わせていなかったんだ。
僕は泣いて逃げていた。
僕を泣かせるのは、いとも簡単な事だった
僕はお前たちなんか大っ嫌いだ、と叫び、二度と戻って来るもんか、というつもりで逃げ出していた。
いつも大袈裟すぎるくらいに。
僕はずうっと、逃げる事ばかりを考えていた。
父さんと母さんが喧嘩をした時も、君はドアがバタン!と強く閉められたのを聞き、そして何時間も僕がいなくなっているのが分かるだろう。
父さんは僕たちをケント州のはずれにあるディールまで、釣りに連れて行ってくれた。
みんなバンにあらゆるものを詰め込み、我先に助手席に座ろうと喧嘩した。
助手席以外は、後ろの雑然と積み重なったガラクタと一緒にされた。
父さんは時々、歌を口ずさんでいて、誰も知らない、軽妙で古い歌だった。
父さんの歌は、心をくすぐるものだった。
そして窓から顔を出して「良いかい、愛しい人」と叫んでいた。
外で庭いじりをしていた老婦人が聞きつけ、顔を強張らせてこちらを見上げている。
それを見て僕たちは大いに笑った。
僕は釣りが本当に嫌いだった。
釣り糸を垂らしてすぐだったら、楽しいように思うんだけど、僕はすぐに飽きて、帰りたい、とぐちぐち不平をこぼした。
僕は父さんのバンの助手席にだらしなく座り、ダッシュボードに足を載せ、腕を組んではふくれっ面をしていた。
僕が6歳の頃、ケヴィンと僕はバースにいる家族のもとで滞在するために、送られた。
グリニッジ自治区協議会は、恵まれない子供たちへ休日の機会を与えるべく、施策を立てたのだった。
母さんは僕たちを疎開者のような格好をさせた。
ショートパンツに長靴下、ネクタイとキャップ帽子、海軍のマッキントッシュ(濃紺のコート)の襟の折り返しには、住所が書いた下げ札が結び付けられていた。
電車がホームに来ても、まだ母さんは手につばを付けて、僕たちの顔の汚れを拭っていた。
母さんが望んでいるのは、僕たちが良い家庭で育っている子だと人々に知ってもらう事だ。
僕たちは驚きと好奇心に満ちて、バースにほど近い、バスフォードに付いた。
僕とケヴィンが滞在していたのは大邸宅で、チューダー様式の木造の梁があり、ツタに覆われている家だった。
▼参考画像
チューダー様式の家と、木造の梁
そこは焼きたてのパンの香りと、牛糞のにおいを漂わせていた。
車の騒音は一切聞こえなかった。
上流階級の家族だったけども素敵だった。
その家庭には4人の実子がおり、男の子が2人と女の子の2人だった。
子どもたちは揃って礼儀正しく、甘やかされていなかった。
彼らは奪い合いにならず、何でも分け合っていた。
バースで僕は幸せに過ごしたけれど、もう行きたく無いな。
僕は自分のみすぼらしさを恥ずかしく思ったし、彼らに好かれていないんじゃないかと心配していたんだ。
みんなでピクニックと日帰り旅行で、城址へ行った。
彼らは僕たちにハチミツのサンドウィッチを作ってくれて、僕とケヴィンは、それが酷い味だと思いつつも、礼儀正しく、ゆっくりと食べた。
4人の子どもたちは、僕らと変わらない年齢だったにも関わらず、彼らの両親は自分の子に対して、大人であるかのような話し方をしていた。
それってヘンだよね。
僕は、なぜ同じような家族が持てないのか、不思議に思った。
僕たちはその後、2、3回くらい滞在していたけれど、僕は自分の家に帰るのが楽しみだった。
ある年は、僕たちは子供のいない老夫婦の家に滞在することになった。
老夫婦の夫は、ダーツボードの修理を仕事にしていた。
彼は、よく僕たちを田舎まで引っ張り回し、パブ(大衆酒場)からパブへ、彼が仕事に取り掛かるのと、一杯引っ掛けている時は、僕たちをバンに残したままにしていた。
彼らは僕たちを怒鳴りつけ、早いうちにベッドに入らせた。
ただ一つだけ良かったのは、奥さんのマカロニチーズと、夜遅くに食べるおやつだった。
夫はケヴィンを平手打ちにして、ケヴィンは逃げ出した。
僕は怯えて泣いていた。
僕たちは二人とも、家に帰りたいと願っていた。
最後にはようやく、他の家族のもとへ送られることになった。
別のかたちで行くこともあった。
ケヴィンとリチャード、それと僕で、ウィルトシャーにある農場へ行ったんだ。
僕たちをお世話する夫婦は、典型的なヒッピーだった。
夫はあごひげをはやして、ギターを弾き、コーデュロイのズボンをはき、奥さん方のは「ニュー・シーカーズ」の一人に似ていた。
▼参考画像「ニュー・シーカーズ」
1969年のイギリスの音楽バンド
彼らは農家の、改装した屋根に住んでいた。
大きな金属のらせん階段があって、屋根まで上がるには、その階段をよじ登らないといけなかった。
僕は落ちるんじゃないかと怖くてたまらなかった。
だから、僕が外に出るときはいつも誰かと一緒じゃなきゃダメだったんだ。
彼らに子どもはいなかったから、屋根の下に住んでいる、農家の子どもたちと一緒に遊んだ。
僕たちは乳しぼりを見るために6時に起き、そして仔牛が生まれるのを見た。
これらの休暇は、僕の人生において特別なひとときとなったんだ。
第三章ここまで