2018年12月23日日曜日

The Millionaire Waltz - Queen 和訳

The Millionaire Waltz - Queen 和訳


ミリオネア・ワルツは1976年、「華麗なるレース」の4曲目。
ちなみに、このアルバムのタイトルはマルクス兄弟の映画から取ったものです。


▼映画「マルクス一番乗り」"A DAY AT THE RACES"



前作の「オペラ座の夜」も同様です。


シュトラウスのように荘厳華麗な、重奏とコーラス。
フレディの世界を心行くまで堪能できます。



▼オフィシャルのミリオネア・ワルツ






"The Millionaire Waltz" 和訳



Bring out the charge of the love brigade
恋のさざめきに心をくすぐられ

There is spring in the air once again
あまつさえ、春の陽気が漂い満ちる

Drink to the sound of the song parade
華やかな楽団のパレードに祝杯を挙げ

There is music and love everywhere
音楽にのせて、そこかしこに愛の言葉が交わされる

Give a little love to me (I want it)
僕に愛を少し(どうか与えて)

Take a little love from me
僕の愛をささやかに

I wanna share it with you
あなたと分かち合えたなら

I feel like a millionaire
この世の全てを手にした心地さ



Once we were mad, we were happy
かつては熱情に身を任せ、幸せをかみ締め

We spent all our days holding hands together
手を取り合い、ともに重ねた日々を

Do you remember, my love?
憶えている?愛しい人

How we danced and played in the rain we laid
戯れに舞い踊り、雨に体を合わせ

How we wish that we could stay there, forever and ever
このまま時が止まればと、どれほど願った事だろうか



Now I am sad, you are so far away
今の僕は悲しみに暮れ、君はいずこへ

I sit counting the hours day by day
力なく座し、いたずらに日をやり過ごしている

Come back to me, how I long for your love
戻ってきて
いかに僕が君の愛を渇望しているか

Come back to me, be happy like we used to be
帰ってきて
あの日のように笑っていよう



Come back, come back to me
戻ってきて、僕の元へ

Come back, come back to me
帰ってきて、弾けるような日々に



Come back to me, oh my love
ここへ戻れ!すぐに

How I long for your love
引き裂かれるこの痛みが分からないのか

Won't you come back to me, yeah
どうして戻らないんだ



My fine friend 
心ある方よ

- take me with you and love me forever
僕を連れ出して、永遠の愛を与えて

My fine friend 
どうか麗しきお方よ

- forever - forever...
そのまま傍へ置いて、命尽き果てても



Bring out the charge of the love brigade
愛と恋のさざめきに、はやる気持ちも浮き立って

There is spring in the air once again
花誘う風さえも、春の香りに満たされる

Drink to the sound of the song parade
賑やかな楽隊を背景に、美酒を酌み交わし

There is music and love everywhere
音の饗宴があふれ、誰もが愛を語らう

Give a little love to me (I want it)
愛を僕に少し(求めて)

Take a little love from me
僕の愛をあなたにも

I wanna share it with you
心を交わせたなら

Come back, come back to me
もう一度、あの頃へ

You make me feel like a millionaire
君さえいれば
億万長者のような夢心地さ






以上です。



▼2011年デジタルリマスター版の音源と、映像を組み合わせた字幕動画です。足りない部分はイメージ映像を入れています。






おまけ


1977年ヒューストンのライブで演奏されたミリオネア・ワルツ。
▼メドレーの1曲なのでフルでは無いです。





考察


英語のウィキペディアか、ライナーか、どこかで見かけましたけれど、この曲は1975年~1978年にマネージャーをつとめた、ジョン・リード氏のことを書いている、とありましたが。

え?どの辺り?という感じです。

確かに、二本足の死神こと、ジャック・ネルソン氏とようやく縁が切れて、敏腕のジョン・リード氏が来たことをクイーンのメンバーは喜んでいましたが。

だからと言って「ジョン・リード氏の曲だ」というのは、ミスリードを誘うような感じがします。

ただ、ようやくトライデント社の搾取から解放され、思う存分腕を振るうことが出来て、のびのびと開放的になったのは確かだと思います。


何が言いたいかというと、ミリオネア・ワルツが大好きで、純粋にフレディの世界に浸りたい、ねこあるきでした。





2018年12月16日日曜日

クイーンからファン宛へ直筆手紙 - Queen 和訳

クイーンからファン宛へ直筆手紙 - 和訳 Queen


1974年末から、1975年にかけて書かれた(と思われる)、クイーンのメンバー4人が書いた、ファン宛の直筆手紙を和訳しました。
意訳が多いねこあるきの癖に、わりと直訳に近い和訳です。


ちなみにこの手紙は、以前、ドント・ストップ・ミー・ナウの和訳ページで画像のみ紹介したものです。


では早速、フレディ・マーキュリーから。



Hello Dears,
やあ、親愛なる君たち。

Thanks for giving us a No.1 this year, 
今年、僕たちをチャート1位にしてくれてありがとう。

we all really appreciate it -.
本当に心から感謝しているよ―

Hope you enjoyed our live performances as which as we did -.
僕たちがどこで演奏したライヴであっても、
君に楽しんでもらえたなら良いな―

We shall be taking the same show to America and Japan early in the New Year, 
年明け早々に、僕たちはアメリカと日本で同じ演奏をするんだよ。

but will be back before you have time to miss us.
でも、君が寂しい思いをする前には戻ってくるからね。

Meanwhile have an outrageous Christmas and a naughty New Year -.
とりあえず、悪意あるクリスマスと、いじわるな新年を迎えないと―

Love & Kisses to all you
愛とたくさんのキスを君に

darlings - 
大好きなひと―


Freddie
フレディ




以上です。

まるでラブレターですね。
二人の時間を裂くものは、クリスマスも新年も「いじわる」になってしまう。
フレディらしい表現です。




次は、ロジャー・テイラー。



Hello Everybody ,
よぉ、みんな。

This is Roger writing this time and I'm going to try and give you a good idea of what we have been,owe, and will be doing, as its definitely time to spill the Heinz to you all. 
この手紙は、こちらロジャーが書いていて、
今回、俺は君に今まで色々やってきた中で
思いついた良いアイディアを伝えるのと、
義務でもあるし、
これからどうするかを全部ぶちまける絶好の機会だ。

Well believe it or not we haven't had a moment of inactivity since we last played in England, 
信じられないかもしれないが、
最後にイギリスで演奏してから今日まで
俺らが手を休めたヒマは少しも無い。

although not all of what's been happening in the recent past has been what we enjoy most.
そうとは言え、俺らがここ最近一番楽しかった出来事は
この限りではない。

To cut it short we now have a new manager 'John Reid', who we all get on with really well.
まあ簡単に言うと、新しいマネージャーの”ジョン・リード”が来て
おかげで、本当にうまく軌道に乗ったことだ。

He also looks after Elton John so he's well qualified for the job.
しかも彼は、エルトン・ジョンの世話役を勤めていて、
つまり、仕事を果たすに充分な資質を持っているわけさ。

Changing management etc. was a long boring business and I won't rabbit on too long about it, 
あとは、経営者が変わったりとか、いろいろだ。
長ったらしい仕事の話はつまんないから、
これ以上だらだら話を続ける気はない。

but it did slow us down a bit in recording the next album and 
touring again.
だけど、そのせいで次のアルバムのレコーディングとか、
またツアーに出るのが少し遅れたんだ。

However as many of you might know we're bin' working our knees off,
それでも、君も良く分かってくれるだろうが
俺たちは自分で努力して、ちょっとずつ溜まったものを片付けている。

and should have the new album "A Night At the Opera" out by mid November. 
で、新しいアルバム「オペラ座の夜」は
11月の中旬には出るようにしないと。

We're in the stadios right now working like crazy to finish it, so far it's sounding F.A.B. 
俺らは、今ちょうどスタジオ入りして、
狂ったように作業して完成させようとしている。
今の所、鳴り響く組み立て工場だ。

in fact better than anything so far! 
実際、今までより断トツに良い!

I just hope you all like it.
君が気に入ってくれれば、言うことナシ。

The thing we're all looking forward to most is touring in Britain again in November and December. 
俺らが一番楽しみしているのは、
11月と12月にイギリスでツアーをやる事。

Hopefully we'll get to see a lot of you somewhere between Dundee and Bristol !?
ダンディーからブリストルにかけて
たくさん君に会えますように!?

O.K. then brother and sisters. 
オーケー、じゃあ兄ちゃん、姉ちゃんたち。

Enjoy Yourselves above all.
何はともあれ、楽しんで。


Roger Taylor
ロジャー・テイラー




以上です。
口語的表現と言いますか、独特な言い回しが多いです。

【出てきた言葉の説明】
ジョン・リード:
1975年から1978年にクイーンのマネージャーになった人。
エルトン・ジョンの元マネージャー兼恋人。

ダンディー:
スコットランドの都市名




次はブライアン・メイ。




Log Pat'n'Sue
Jan 18th '75
パットとスー 記録
1975年1月18日

Dear Queenie
Appreciators.....
親愛なるクイーニィ
すべての鑑賞者へ


I'm really glad to have this chance to write to you in this issue. 
僕はこの発行に寄せて筆を執る機会を得たことを、
非常に嬉しく思っている。

I've just been reading some of the great letters you've written to us 
君が僕たちに書いてくれた素晴らしい手紙を幾つか
たった今、読んでいたところだ。

(we _do_ read 'em, you know !) 
(当然、僕たちはちゃんと読んでいるよ!)

and it makes me a little sad that we can't write personally to each one 
それで、一人ひとりへ個人的に返事が書けないことを
少し悲しく思っていたんだ。

- if we did we'd have no time to make any more music and you would'nt be writing to us then !
―もし僕たちがそれをやったなら、
これ以上音楽を作る時間が無くなって、
そうしたら、もう君から手紙が来ることは無くなってしまう!

So we're very grateful to Pat'n'Sue who help us very much in touch with you.
だから、僕たちが君とふれあえるように助力してくれた
パットとスーを非常にありがたく思っている。

'Cos _you're_ what it's all about.
なぜなら、君が僕たちのすべてだからね。

At the moment we're working every day and most nights on our 
film of the Rainbow Concert, 
mixing and editing to a Suitable form for 
the " Whistle Test" and such like -
今のところ、レインボー・シアターのコンサートで撮影したフィルムをミキシングや編集して、ほとんどの夜と昼間は休みなく働いているよ。
「ホイッスル・テスト」や他の番組でも流せるようにしているんだ―

so you'll be able to see us while we're away in the U.S.A. and Japan these coming 5 months.
だから、来るべき5か月間、アメリカと日本へ行っている間も
僕たちと会うことが出来るよ。

We'll be thinking of you - and we 'll be back !....
so Keep yourselves alive (and Rockin' !)
いつも君のことを想っている― 僕たちは戻ってくるから!…
そして「キープ・ユアセルフ・アライブ」(それとロック!)

Love
愛をこめて

Brian
ブライアン




以上です。
文字の解読の方に時間を費やしました。

【出てきた言葉の説明】
クイーニィ:
クイーンのファンの名称。

ホイッスル・テスト:
正式名"The Old Grey Whistle Test"英国のテレビ音楽番組。
1971年から1988年までBBC2に放映されました。

「パットとスー」は、1974年にクイーンの公式ファンクラブを立ち上げた、ジョンストン姉妹のことです。

▼パットとスー姉妹。






最後はジョン・ディーコン。



Hello Everybody
やあ、みんな。

This is your friendly bass player here! 
君と仲良しのベース弾きだよ!

We seem to have been away for ages so I hope you haven't forgotten us !
ずいぶんと長いこと会っていないような気がするから、
僕たちのことを忘れてしまっていないと良いな!

We saw the whole of America this time from New York to Los Angeles which was quite an experience. 
今回、僕たちはニューヨークからロサンゼルスまで、
アメリカ全土を見て回ったけど、すごい経験になったよ。

It was a shame we missed a few gigs but Freddie's voice managed the rest of the American tour o.k. and after our rest in Hawaii, he was in great form in Japan.
残念なことに、いくつか出来ないギグがあったけれど、
残りのアメリカツアーでの、
フレディの声の調整になったから良しとして、
その後はハワイで休養したんだ。
彼は日本で絶好調だった。

We had all been looking forward to going to Japan for a long while,
僕たちは長らく日本行きを楽しみにしていたんだ。

but we never expected such a great welcome.
だけど、あんなに素晴らしい歓待を受けるなんて、予想できなかったよ。

We were all knocked out by the warmth and friendship of the Japanese people and fascinated by their lifestyle.
僕たちはすっかり日本の人々の暖かさと友情にノックアウトされて、
彼らのライフスタイルへ惹き付けられてしまった。

Three of the pictures in this Newsletter were taken in Japan. 
この会報に、日本で撮った3枚の写真を添えるね。

One is of us taking part in an ancient Japanese Tea Ceremony where we were served by four beautiful Japanese girls in kimonos.
1枚は、古典的な日本のお茶会で撮ったもので、
着物を着た美しい日本の少女たちが給仕してくれた写真。

Freddie wasn't as bored as he looks, 
フレディは見た目ほど退屈していたわけじゃないけど、

but Roger,Brian and I did learn to hold the cups Japanese style!
ロジャーとブライン、それと僕は日本式の茶碗の持ち方を覚えたよ!

The other two were taken when Freddie and I visited Nagoya Castle, 
他2枚の写真は、フレディと僕で名古屋城へ行ったときに撮ったんだ。

where we met some very inquisitive Japanese schoolchildlren.
そこで出会った日本の小学生たちは、すごく知りたがりだったな。

In the shot with the castle, you may just be able to see Freddie and I in the background as the children couldn't wait to get in on our Photos!!
そのお城のショットで、
子どもたちは写真を撮るまで待てなかったみたいだけど、
僕とフレディの後ろ側に映っているのが見られるよ。

Anyway it's great to be back home after three months. 
さて、素晴らしいことに三か月後にはまたこっちに戻ってくる。

We'll soon be working on our next album, 
すぐ次のアルバム制作にとりかかるよ。

which I'm sure you're looked forward to,
きっと君の期待に応える仕上がりになること間違いなし、

so I hope it doesn't take too long!!
だから、あまり時間がかかり過ぎないようにしないと!!


Cheers for now
じゃあ、またね

John
ジョン




以上です。
日本での出来事が書いてあるので、いくつか画像を載せておきます。



名古屋城での観光とお茶会です。


▼何を食べてるの?
 


▼左下に小学生たちが来ました。
 


▼フレディさん、その持ち方は茶碗を落としそうでハラハラします。





文は人なり、それぞれ4人の個性が出ていて良いですね。
拝読しまして感慨深いです。



おまけ



音楽雑誌「ミュージック・ライフ」に、フレディが片仮名で書いた直筆サインがあったので、フレディだけ日本語の手紙にしました。












この直筆サインを画像に起こすためだけに、フォトショップ体験版をダウンロードしました。
ねこあるきの余生において、もう使うことは無いソフトでしょう。
(機械に弱いのに、何をやっているんだ)



おまけ2


せっかく画像にしたので、直筆サインだけ載せます。
待ち受け等にどうぞ(?)





2018年12月9日日曜日

TAKE IT LIKE A MAN - 和訳 ボーイ・ジョージの自叙伝 第二章

TAKE IT LIKE A MAN - 和訳 ボーイ・ジョージの自叙伝 第二章


第二章は、ボーイの子ども時代の生活環境です。
11ページあって、長いですよ。

2つに分けてブログに載せようかと思いましたが、自分が読む時に面倒なので、1ページにまとめました。


第一章、チャプター1はこちら




CHAPTER 2
第二章

人が生まれながらに持っている性質や、あるいは何に夢中になるか、そして、なぜそうなるのかを見極めるのは不可能だ。
母さんが言うには、僕はとても静かな子どもで、ちょこんと座ってはひとり遊びを楽しんでいた。


時々、僕は鮮明に過去の事を思い出す。
ボーイスカウト隊のアケーラ(※隊長)だった日々を。

「ベストを尽くせ」を合言葉に、みんなで頑張った。
そして、名誉ある銅賞、銀賞、金賞を授かったんだ。

僕たちは遠くて広大な地元の野原に出掛け、週末は自宅から3分の所でテントを張って過ごし、ソーセージを料理したり、縄目を結んだりした。


アイルランドにいる、フィリスおばさんと、アニーおばさん、フランクおじさんの所へ遊びに行くときは、船の中で4時間、ずっと吐きっぱなしだった。

おかげで、フランクおじさんが持っている「ニュース・オブ・ザ・ワールド」(※小説)を読むことが出来なかった。
「お前に見せるために持って来たんじゃないぞ」


ほかに僕が覚えているのは、ヘザーおばさんの家でやった誕生パーティのことや、ダンソン・パークにあるプールへ落とされたこと、
ピンポンダッシュして遊んでいたこと、フーリハンの飼っている犬が怖かったこと、
友達のモイナ・ケーンズを手伝って、100年は積もったであろう彼女の部屋のホコリをすっかり掃除したこと、自分の自転車から落ちたこと、
それから、弟のジェラルドが失明してしまった時に、僕たちが色々考えた日のこと。


ジェラルドはその日、疲れ果てて芝生のところで雲を見上げていた。
突然、彼は動かなくなった、まるで死体みたいに。

誰かが叫びながら、母さんの所へ駆けて行った。
僕たちは怖くて仕方がなかった。
彼は高熱とけいれんを起こしており、すぐさま病院へ担ぎ込まれた。

母さんが僕たちに話したのは、動いているときや、顔をしかめているときは、雲を見てはいけないということ。
きっと母さんも含めたみんな、この状況に行き詰まっていたんだ。

未だに僕は、あの時見た、流れて行く雲を思い出す。


僕たちは冷たいリノリウム(※床の仕上げ材)の床を、エイジャックと一緒にゴシゴシ磨いて掃除した。
家にそろっているものは、全てが最小限だった。
部屋の大きさに足りない小さなカーペットを敷いて、ソファーみたいなダブルサイズのベッドを置き、おばあちゃんの花柄のカバーを掛けた、いかにも座り心地の悪そうな椅子が2脚。
それは、どうやっても心地よく座ることは出来ないものだった。


あとは、宇宙人との交信を彷彿させる、映りの悪い白黒テレビ。
父さんはいつもテレビをぶっ叩いていた。
「使えんガラクタめ」


家には石炭で熾した火があって、誰かが落ちないようにワイヤーメッシュの囲いがしてあった。
一度、ケヴィンが父さんの給料袋を、火の中にくべたことがあった。
父さんはケヴィンを、罰としてさんざん叩いた。


テレビが見られるのは、8時までだった。
僕は盛大に不機嫌になったけど、父さんがベッドに連れて行こうとするときは、誰も父さんから逃れることは出来なかった。

ベッドに入った後も、僕は起きあがって、階段の上からこっそり忍び寄った。
今思えば、まったく無意味な行動だよ。
実際、テレビを見ることが出来るはずがないのだから。
僕は何かに駆り立てられていたんだ。
まあ、正しい事や、最善の方法というのは後になって分かるものさ。


日々の生活は、そのまま流れていくように見えたが、出産のたびにいちいち中断された。
1967年までに、僕は2人の弟ジェラルドと、デイヴィッド、妹のシオバンがいて、子どもたちが、母さんの生涯にわたるエネルギー源となっていた。


僕の家、ジョアン・クレセント29番地は、しばらくは王宮のようだったが、まもなく醒める日が来る。
初めこそ、かなり大きな家でも、けたたましく叫ぶ子供たちがどんどん増え、今や人口は過密な状態になった。

誰もが自分のスペースを欲しがったが、それを訴えても、その辺の窓にぶらさがっていろ、と言われただけだった。


階段の上の3つの狭い寝室を、不均等に8人の家族で分けていた。
両親が一番広い部屋に、デイヴィッドとシオバンがもう一つの部屋を共有した。

3つのうち、残された部屋に僕たちが押し込まれ、4人の男の子は常に緊張状態で、精神を損なう状況で成長していた。
僕たちは部屋でいつも一緒で、激しくケンカして泣いたり、プライバシーの欠如に、それぞれが屈辱を覚えていた。


父さんは動物を飼うのに熱を上げた。
家の裏庭には13羽かそれ以上の鶏と、1羽のやたらかわいくない若い雄鶏がいた。
それから、ジャーマン・シェパード犬のルイスがいて、気の荒い友達で、仇でもあったけど、ルイスがする事はしょっちゅう許されていた。

当然のことながら、この動物たちは近所から不評を買った。
特に鶏の多さに、腹に据えかねていた。


僕たち家族が引っ越してきたとき、父さんは最初に庭を掘り起こし、じゃがいものタネを植え、みんなを動揺させた。
近くに住むボールドウィンさんは、あっけにとられていた。

庭は「完璧」で、青々と、花壇からはみ出して生い茂った芝生に覆い囲まれ、田舎暮らしに夢描いた水田は、すっかりダメになった。


僕たちの庭は、父さんがどこかで見つけてきた色んな家具のパーツや、錆びた車の部品の中で、鶏が奇声をあげながら走り回る、小型の冒険広場のようだった。
その全部に価値があり、そのまま置いておいた。

父さんが酔っぱらって事故を起こして廃車になり、解体されたベッドフォードのバンでさえ、庭の前に積んだレンガの上に立てかけてあったが、父さんはよく、それを道具として納屋に持ち込んだ。

何かにつけ、ご近所を驚かせた。
僕は内心で、これらはなんとカラフルだったことかと思っていた。


隅っこに使えそうな場所があれば、小さくなって着れなくなった服を積み重ね、大家族なだけに洗濯機は24時間、ひっきりなしに唸りをあげていた。

母さんはどこから見ても、漫画に出てくる専業主婦だった。


She always hangs out her washing
To dry in the hands of the sun.
She always hangs out her washing
If there ain't any she'll find some.


※Sarah Jane Morrisの歌




彼女はいつも洗濯をして
手でそれを干している

彼女はいつも洗濯をしているが
その姿ばかりを目にしている


明けても暮れても、同じことの繰り返し。
母さんが洗濯をしてないときは、料理をしていた。
そして料理をしてないときは、買い物に出ていた。

彼女はその役割に甘んじ、従順にこなして、決して自分だけのために時間を取ることは無かった。
一人の子を置けば、他の子を抱き上げる。
母さんは、父さんの家の中での権威について、疑うこともなかった。

彼女は純然たる「妻」だったんだ。
どんな状況が来たとしても、父さんは女の居場所は台所だと、決して言ったわけじゃない。
母さんが言うには、一般的にそういうもの、だそう。

母さんは、「チャーリーとチョコレート工場」や、「ワット・ケイティー・ディド」「若草物語」のような本を、僕たちに読む時間を作ろうとしていた。
そりゃあ、どだい無理なことだ。

ジャガイモの皮をむいたり、グレイビーソースを作る時間の間に、本を読んで聞かせる十分な時間など無かった。
実用性があるものは、常に優先順位が高いから。


母さんは貧しい生い立ちだった。
父親は箱を作る仕事をして、母親は家事だけでなく、家具の修繕の仕事をしていた。

母さんの家族は、ダブリンにある、ウェリントン通りのジョージアン・ハウスの最上階を改装した、高天井の2部屋に住んでいた。
トイレは4つほど階段を下りて、次の踊り場に設けてあった。

母さんが長男のリチャードを妊娠した時は、3人の姉妹で1つのベッドを共有していた。
姉妹が母さんの体調に気が付かなかったのは、理解するには幼かったんだ。
リチャードが生まれた時、ダイナが生んだのではなく、自分たちに兄弟が出来たと思ったほどだ。


母さんは、アイルランドでの家庭生活を描いたロマンチックな絵を持っている。
僕の祖父フランコはもちろん暖かい人物で、赤ら顔で酔っぱらった表情が魅力だった。

僕の祖父母がクリスマスに来た時、祖父フランコは、僕ら子どもたちと一つの遊びをしようとした。
― 複雑な形の粘土細工を使って、物語を聞かせてくれること。


僕にはフランコに嫌な思い出がある。
それは、彼がオダウド農場の庭にいる、生きている鶏を絞めて、内臓を抜いたこと。
全体像としての彼は愛すべき人物で、高くて筋が通り、ピクルスのような鼻をしていた。
彼は詩人で、看護婦のストライキや、州政府の人々について詩を書いていた。



百万もの看護婦が毎日
豆の缶を手に取って言う
ひとつはあなたへ、ひとつは自分へ
ひとつはあなたへ、ひとつは自分へ。

この国は、犬になるつもりだ
彼らは水田と黒人を非難する
だが、彼らはこれがうまくいかないと分かっている
歯車は噛み合わないだろう



グリンばあちゃんは逞しい女性で、短くてモップみたく茶色いカールした髪と、厳格な面持ちに、腕組みをし、細い目をしていた。
彼女は、鮮やかな花柄でポリエステルのドレス、実用的なコート、同じく実用的な靴と、サラダボウルのような帽子をかぶっていた。

僕たちが彼女の足元にいると、濡れたフランネルの布でピシャリと打った。
僕はいつも彼女の手から逃れていた。
「ええい、その頭を叩き割ってやるよ」


グリンばあちゃんは、考えうる限り最悪なカトリック教会の伝統で学び育った。
無知と恐怖という伝統の中で。

女子修道院で育ち、自身の不道徳な女性らしさから身を守るために、すっぽり身体を服で覆ったまま入浴することを強制された。

彼女の人生は、意図的に作られた茨の道となった。
伝統が、苦痛と罪の遺産を創り出したんだ。


グリンばあちゃんは愛情に満ち溢れていたが、もし僕たち子どもが泣いたら、ひどく厳しい態度をとった。
「泣くな、大ばか者。庭に立ちなさい、干し草の嫌なにおいがするだろ、ええ?」

いつも神の御名を呼んでいる。
「主よ、マリアとヨセフ、御身と共にまします。」
僕はひどい方法で彼女を愛したが、彼女は僕の人生で最も手ごわい女性だった。


父さんは、ばあちゃんに絶対に近づこうとしなかった。
彼女の滞在の最後は、いつも涙で締めくくった。
「その女を家の外に出せ」


我々子どもたちは、全てのことに気付かず、どうせ忘れるものだと思われている。
でも、僕らは幼いながらも何が起きているか、全貌を把握していた。
ばあちゃんは、リチャードを溺愛しているのが見て取れた。

僕らは、何を言われているのか聞こえていた。
父さんは、ばあちゃんを「ナギー・マギー(怒りっぽく、うっとおしい)」と呼んでいたんだ。
時々、父さんは母さんをわざと怒らせるために、ばあちゃんと同じように「マギー(うっとおしい)」と呼んだ。


ばあちゃんと父さんの間に諍いが勃発した時、母さんはいつも板挟みになった。
彼女は両者いずれも宥めることは出来なかった。

二人の争いは、怒りがさらなる怒りを呼ぶケンカだった。
父さんはリチャードは我が息子だとし、ばあちゃんの執着と余計なお世話は要らないと言った。
ばあちゃんはリチャードは自分の息子とみなし、母さんと父さんの口論に、干渉してきた。

ばあちゃんは父さんに警告した。
リチャードを大事にするか、そうでなければ、アイルランドへ連れて行って、父さんから引き離す、と。
父さんはうちだけに拘るんじゃなくて、他の叔父やいとこのところでやってくれ、と言った。


父さんは昼も夜も働いた。
彼は、暖かい服や食事が、愛情や優しさの代わりになると愚直にも信じていたからだ。
彼の持つ愛情は、瓶に詰めてあり、薬棚に保管し、「お子様の手の届かないところにおいて下さい」とラベルを貼っているかのようだった。

愛情の類は距離を取って感じにくくしてしまうと、良さも分からないし、感謝もできない。
僕たちは決して飢えることは無かったが、時に優しく抱きしめることは、温かい食事よりも充分な心の栄養となる。

僕は父さんが目を向けてくれるのを、長い間欲していたけど、どうしても得られなかった。
父さんと色んな話をしたくても叶わなかったんだ。

僕はがっかりし、父さんは僕が嫌いなんだと自分を納得させ、父さんの言う事を聞かなくなった。
僕は父さんを愛し、かつ嫌悪し、憎み、かつ尊重し、喧嘩をしては嘆き、仲良くなりたくてたまらなかったんだ。


彼はいつも、自分が悪いところは頑固にはねつけ中々みとめないのに、他人の悪いことを耳にすれば、過度に怒り、攻撃的で、間違った人々には容赦なく、感情をありったけぶつけた。

僕が子どもの頃はずっと、父さんのようには絶対なるまい、と固く誓っていた。
僕は自分自身に言い聞かせた「もし誰がどんな振る舞いをしても、ああはなりたくない」と。

父さんがあんなに怒る意味が分からなかった。
僕がまだ幼いときは、その理由や起因は何なのか見当もつかなかった。

父さんは自分が子どもの頃のことは話そうともしなかった。
辛うじて分かっているのは、父方の祖父母のマーガレットとジョージについて。

僕は色あせて、ボロボロになった写真を見たことがある。
マーガレットがエプロンを着て(裏庭で、父さんの姉妹ポーリーン、メイ、ジョセフィンもいる)、いたずらっぽくニッコリと笑い、顔には苦労をうかがわせるしわが刻まれていた。

マーガレットは逞しい女性で、既婚の女性はお屋敷で女中を勤めるのが普通だった時代に、彼女はズボンをはき、ビールをガブ飲みしていた。

若い時のマーガレットは美しい女性だった。
その相貌は、父さんとジョセフィンが受け継いでいる。


父さんは自分の家族から疎外感を感じていた。
父さんと、彼の兄弟デイヴィは、ほとんど自分の力だけで生き抜くことを余儀なくされ、野犬のように普段から足蹴にされていた。

彼の家族には定義づけられた役割があった 
― 男の子は、男の子。わんぱくであれ。

父さん兄弟に、初めこそ出ていた不平や悲鳴、言いたいことは、時間が経つほどに口数が少なくなり、やがて、何でも自分の中に留めておくようになった。
何であれ、自分の弱さを晒してしまうのが「罪」だとされたんだ。


父さんは、たとえ往来であろうと、ウーリッジだろうと、軍隊にいようと、問題はこぶしで解決するものだと学習していた。
攻撃は最善の防御だったんだ。

彼は毎晩帰宅すれば、まっすぐテレビの前のお気に入りの椅子に向かい、新聞へのめり込んだ。
彼は、この晩のひとときを「自分の時間」と呼んでいた。

僕らが騒ぐと、静かにさせて言った。
「お前達は一日中、騒いでいただろう」

俺の時間だ。
これがどれほど重苦しい空気だったかは、想像を超えている。

「父さん、ねえ今日さ、カエル捕まえたんだ」
「シー!お前、今は俺の時間だ」

彼は「自分の時間」だけが、家族と一緒に過ごせる唯一のチャンスだったことに気が付いていなかった。
いつも僕たちを黙らせようと、怒鳴りつけた。

そして母さんを大声で呼び
「なんで子どもらをベッドにやらないのか?」
「あなたの子じゃないの」

母さんはいつも、この家の騒音について責任を負っていた。

「頼むから、子どもたちを黙らせてくれないか」
「あなたがベッドを整えて、今すぐ横になったら」
「今日は、仕事でめちゃくちゃ疲れてるんだよ」
「あら、そう。私はハロッズへ買い物に行ったわ」

母さんの返答は、いつも早くてトゲがあった。
彼女は父さんを、狂ったように完全に怒らせ、家具の一部を手につかむまで挑発した。

ガシャン!

何かが部屋の中を飛び交い、そうこうする間に、いくつかの物が破壊されていく。
父さんはあらん限りの声を張り上げて罵った。
「お前たちはみんな厄介者だ、くそっ!
お前なんか誰からも相手にされるものか!」

母さんは父さんが癇癪を起こしたときは、いつもキッチンか寝室に逃げ込んだ。
それから目を真っ赤にして10分後に現れる。
まるで何事もなかったかのように。
「ねえ、お茶でもいかが?あなた」
「いや、自分で淹れる」

緑色をした大きなエナメルのポットは、常にストーブの上でシュンシュンと蒸気を上げていた。
父さんは、お湯を入れて時間を置くのではなく、ゆっくり煮たお茶が好きで、母さんはそれを『インディアン・ファイヤウォーター』と呼んだ。

父さんが仕事から帰ったら、一通りの儀式があった。
お茶、チーズと玉ねぎのサンドウィッチ、それとお茶のおかわり。

もし読者諸君が、お気に入りのテレビ番組を見ている時が我が家だったら。気の毒なことになる。

父さんはドアから入ったら、誰しもが自分に従うだろうと、彼は決めてかかっていた。
「せがれ、お茶を入れろ。ハンカチを皆に持ってこい」

僕らはみんな、この言いつけを嫌がった。
そうすると、誰かを選んでやらせようとした。

「ケヴィンはどうだ、出来ないか?」
「気にするな、何でもない」

父さんは言う。
「お前はそのままでいろ」

僕の家では、食べたものより、放り投げた食べ物のほうが多かった。
父さんは、芝居がかった大きな身振りが好きで、彼の背中が目に入ったときには既に、トレーに乗った食べ物は空中を舞い、灰皿はひっくり返り、彼は怖がって部屋の外に飛び出した子ども一人をとっつかまえに行った。

30分後、君の肩には父さんの腕が巻かれている。
「大丈夫だ、せがれ、もう大丈夫」

僕は、なぜ父さんがあんなに怒って攻撃的になったのか、まったく理解できなかった。
彼は何かにつけ、このような対処をした。

こんなことは間違っているんだ。
いつも父さんを止めない母さんが嫌いだった。
もし、君が本当に何か悪いことをしたのならば、我が家と違って、君は強制的に上の階へ連れていかれるのだろう。
僕は家が揺れるほど泣き叫んでいた。


父さんの夢は、家族の誰かがボクサーになる事だった。
ボクシングはオダウド家の血筋だ。
父さんの大おじ、ミック・オダウドは、1918年から1922年のミドル級世界チャンピオンだった。


▼※画像を見つけました。



登録名は「マイク・オダウド」、国籍はアメリカです。


曾祖父の兄弟、ジョージはプロボクサーだ。
父さんは僕たちに、自分の身は自分で守れるようになってもらいたがった。

「ほら、そこで耐えろ」
彼は一緒にスパーリング出来るよう、ボクシングのグローブを2セット、家に持ち込んだ。
僕は関わらないようにしていた。

父さんはエルタムのサウスエンド・クレセントにある近くのボクシングクラブへ僕たちを連れて行った。
僕はちょこっと、スキップしたり、ジャンプしたり、サンドバッグを叩いたりした。
でも、リングに上がるのはすごく怖かったし、人目が気になって恥ずかしかった。

ジェラルドがボクシングではトップだった。
彼は父さんと同じむっつりした面持ちで、誰が見ても、ジェラルドは父さんに似ていた。
僕たち家族はみんな、ジェラルドはボクシングが好きなんだと思った。
彼は嫌っていたのに。
彼はずっと父さんが喜ぶ役割を演じていたんだ。


父さんは毎朝、機嫌が最悪だった。
彼はベッドの外で大噴火を起こしながら、母さんに清潔な靴下と下着を持ってくるように怒鳴っていた。

「そいつはベッド脇で積み重なっていた洗濯物の山から出したんだろ」
「いいえ、ちがうわ」

母さんは階段の上をさっと払うと、新しくアイロンをかけたパンツを引っぱり出した。
「次は探してみて」

彼のように、多くの男は家庭を切り盛りするのも重労働だと分かっていない。
彼が以前、絵に描いたのは、積み重なったシルクのクッションを周りに置いて横たわる母さんの姿だけど、そんな母さんを僕は想像するのに苦しい。

でも、父さんは母さんがいかに身を粉にして働いているのか、未だに見当もついてなかった。
彼女は大変な仕事を抱えていた
― 専業主婦、母親、それと感情をぶつける捌け口に。

僕が学校から帰って来た時、牛乳瓶がまだ玄関先に置いてあったなら、母さんの気分が分かる。
時々、彼女の悲痛な気持ちがこの家を包み込んだ。
正面玄関のドアをくぐれば、家族以外の人にだって、すぐ感じられるものだった。
彼女は部屋着をを羽織り、室内履きをつっかけ、表情には重たい感情がにじみ出ていた。


母さんと父さんが言い争っているほとんどの内容は、無意味でくだらないものだった。
父さんは、すぐカッとなったが、同時に醒めるのも早かった。
対照的に、母さんは物事に執着していた。

彼女は言った。
「みんな、あなたが愛する人を傷つけていると言っているわ。
でも、みんなの方が間違っている」
僕は自分の主張をもたない母さんに対し腹が立った。


母さんが最初に車の運転を習うとき、彼女はきちんと盛装していった。
父さんは嫉妬に狂って、インストラクターをこの辺りから出るまで、執拗に付け回したことがある。
おそらく父さんは、これでもう母さんは父さんを追い払い、彼の元から離れていってしまうと考えただろう。
時たま、僕は母さんがなぜそうしなかったのか不思議に思った。

僕は母さんにしょっちゅう言った。
「父さんに、今みたいに母さんを扱うのをやめさせてよ」
すると彼女は僕に怒った。
「お前ね、口が過ぎるんじゃないの」


口喧嘩の大半は、お金に関することと、お金が足りないことだ。
母さんと父さんは、社会的な地位や出世を望もうとしなかった。

彼らは単に、ちゃんと食べたかを確かめたり、シラミがつかないように、子どもの衣食を整える義務を果たそうとするだけだった。

よその子たちは、フィッシュアンドチップスの売店に行き、買ったばかりの小さな包みを外で食べることが許されたが、彼らの両親は、家から子どもたちが出て行ったことだけをひたすら喜んでいた。

僕たちは、外ではなく家で食べた。
そして、ちゃんとしたものを食べる。
「ジャンク」ではなく。

お皿の上に少し食べ物を残しておくと、神の御恵みがあるそうだ。
「自分の分はしっかり食べろ。インドでは食べたくても食べられない子だっているんだぞ」
僕は父さんに、こう質問したい誘惑にかられる。
「じゃあさ、父さん。その子の名前を一人でも言ってみてよ」
そんな事言えるわけもなく、僕はただ黙々とお皿の上を片付けていった。

よその子が家に帰ると、古くて質素なバター付きのパンだけが待っていると聞かされていた。
母さんは口癖のように言った。
「うちの台所は、床に落ちたものでも食べられるほどきれいなのよ」
そんな事で喜ぶのは、犬だけだよね。


僕の家はきれいで、毎日上から下まで掃除が行き届いていた。
母さんがこれほど掃除を頑張った理由のひとつには、父さんが仕事を家に持ち帰ってきているからだ。

我が家は建築家の楽園で、廊下をシャベルと梯子が塞ぎ、寝室の壁には木材がつっかえにしてあり、まだ新しい塗料の缶や、セメントの袋が置いてあった。
母さんは散らかるのを嫌がった。
彼女が求めたのは、自慢できる家だった。
「いいえ、これは芸術作品では無く、夫の仕事道具です」

彼女はしょっちゅう、家具の配置を換えた。
おかげで、部屋にスペースがあるかのような錯覚に陥った。
寝室も配置替えをした。
おおよそ12フィート(約3.7㎡)の広さの四角い部屋に、シングルベッドが1台、子ども用2段ベッドが2つ、置けるものは限られていた。

僕はお手伝いをしたが、おおかた邪魔者になって、僕は躍起になって掃除した。
僕はいつもお客さんの周りを掃除機かけて、まだ使い終わっていない灰皿をきれいにした。
母さんは怒ってピシャリと言った。
「やめなさい、失礼でしょ」


母さんが食事の準備を終え、さあ食べようというところで、父さんは雑談を始めた。
父さんは、誰かの家の下水道にある障害物をどうやって取り除いたかを、微に入り細にわたって話し始めた。

「そりゃあ、ものすごい悪臭でね。その臭いといったらウ…」
「もう充分よ、ジェリー。私は今、夕飯を食べようとしているのよ。
そんなに仕事熱心なら、家の外を掃除するのが一番ね。
45番あたりから始めたら良いわ」


「45番」は、ケーンズが住んでいるところだ。
だらしないアイルランド人の家族で、怪しげな寝たきりの父親が、リビングの隅っこで眠っていた。
ケ―ンズ家の子で、モイナと弟のリーは、僕たちを同じ学校へ通っていた。

モイナは僕の友達だ。
日曜日には、よく彼女の寝室に座ってヒットチャートを上から順に聴いていた。
僕たちがうるさくして、外へ放り出されたときには、通りを歩きながら二人でトランジスタラジオをイヤホンで聴いていた。

モイナは見るからにアイルランド人で、そばかすがあり、髪がふさふさだった。
彼女は苦しい生活を送っており、いつも父親のためにお店へ使い走りをしたり、買い物をしていた。

モイナはちょっと悲しそうで、そこに僕は引き寄せられた。
僕の兄弟はしょっちゅう僕を冷やかした。
「モイナ・ケーンズは彼女なんだろ。モイナ・ケーンズと付き合ってるんだ」
僕は決まってこう言った。
「で、だから何?」

だけど、妹のシオバンがリーと一緒に外出しているなんて言ったら、シオバンは僕のように流したりせずに、悲鳴をあげただろう。

悪口は、日常的な通過儀礼だった。

弟のジェラルドは「パキ(パキスタン人)」もしくは「ジャム瓶の裏」
なぜなら、彼は肌の色が黒かったから。

デイヴィッドは「ダンボ」か「フラッパー(羽ばたき)」、耳が大きかったから。
ケヴィンは眼鏡をかけていたから、「ブレインズ(頭脳)」と呼ばれた。

リチャードは「赤毛」か「にきび」。
シオバンは「うんちのケツ」
そして僕は「女」か、他の似たようなホモっぽい名前なら何でも、遊び場では広まっていた。


ヒギンズ家のジミーおじさんと、ヘザーおばさんは近所の27番に住んでいて、二人は父さんと母さんにとって大親友だった。
僕たちは血縁関係に無いのに、「おじさん」「おばさん」と呼んだ。
ヒギンズ家の子ども、デニス、ジミー、それからショーンは、僕たちのいとこだと言っていた。

お互いの誕生パーティには呼び合い、家族だけで挙げる結婚式へ出るため、おばあちゃんと一緒にバーミンガムへ滞在もした。

デニスと僕はいつも一緒だった。
その辺を手をつないで走り回ったり、玄関前の階段で踊ったり。

ジミーおじさんは商船の船員で、世界中から宝物を持ち帰り、アメリカからはビートルズのカツラとポスターを、シンガポールからは面白いぜんまい式のおもちゃを持ってきた。


おじさんはドリンクバーを持っていて、自慢の種にしていた。
外国の珍しい酒瓶を揃え、鮮やかな赤いサクランボの瓶詰めが並び、銀色のソーダサイフォンが置いてあった。

クリスマスには風変りなボトルのシェリー酒を、母さんのスノーボール(カクテルの名前)を作るのに、ワニンクス・アドヴォカート(卵のリキュール)を、僕たちの家では決して飲めないものばかりだった。

日曜日に母さんが買い物へ行っている間、ヘザーおばさんには僕たちの面倒を見てもらっていた。
おばさんは、揚げたスパムとフレンチフライ、卵と豆で料理を作ってくれた。
僕は家で食べるシチューより、こっちの方が好きだった。

母さんは言った。
「食べてしまえば、入るおなかは同じよ」


僕は、バーズアイ社のフィッシュ・フィンガーとフィンダス社のハンバーガーのような加工食品が好きだった。


※参考画像

▼バーズアイのフィッシュ・フィンガ―



▼フィンダスのハンバーガー


※いずれも冷凍食品です。


父さんは料理が上手だった。

父さんは、なかなか台所へ入ろうとはしなかったけれど、作ってくれるローストディナーはロンドンのサウス・イーストでは一番だよ。
彼のバブル・アンド・スクイーク(ローストディナーの残りを野菜と炒めて作るイギリス料理)は伝説的なほどだ。

父さんは最高のイングリッシュ・フライド・ブレックファストを日曜の朝に作った。


※参考画像

▼フライド・ブレックファスト、通称「フライ・アップ」
毎日ではなく、たまに食べる高カロリーな朝食を指します。




母さんは、父さんが台所へ入るのを嫌がった。
母さんが言うには、父さんが卵を茹でるだけなのにポットで100杯もお湯を沸かすから、だそうだ。

一度だけ、父さんはおいしいカレーを作ってくれた。
そして、僕たちが皆で夢中で食べている間、それはペットで飼っていた若い雄鶏だと披露してきた。
皆、気分が悪くなってしまった。


ヘザーおばさんと、ジミーおじさんがチャールトンへ引っ越した時、売春婦のパムが、彼女の知恵遅れの兄弟ブレインと一緒に越してきた。
ブレインは、よく子どもたちを驚かせたから、僕らは彼を「カジモド」と呼んだ。
僕たちは、彼のどこに問題があったのか分からなかった。

※訳注
カジモド:ディズニーアニメ映画「ノートルダムの鐘」に出てくる鐘撞き男のこと。


この辺りの人はみんな、パムは売春婦だと思っていた。
彼女の家に、いつも男が出入りしていたからだ。
「汚らわしい淫売」

パムは、まだ幼い二人の子供がいた。
みんな、夜になると彼女の寝室の窓に人影が映るのをじっと見て、中で何をやっているのか、勝手に内輪だけで話を作っていた。


ある夜、パムの家が火事を起こして燃え上がっていた。
ちょうど、父さんが仕事から帰って来ていて、父さんは悲鳴と、走り回り、助けを呼ぶ声を聞きつけた。

彼がパムの家のドアを蹴破ると、居間でパムと、数ある恋仲の男のうち一人が精を出していた。
彼はズボンを引き上げ、猟犬のグレーハウンドのごとく駆け出して、あっという間にその辺で姿を消した。

蹴ったり叫び声をあげる半裸のパムを、父さんは引きずり出した。
彼女は、二階に置いてある本を持ち出そうとしていて、父さんをありとあらゆる言葉で罵った。

彼女の二人の子どもはまだ寝室に残されていたが、父さんはどうにかこうにか、子どもたちを外へ出すことが出来た。


31番にはドラキュラが住んでいた。
彼女は本物のホラーで、午前三時に皆を起こし、タクシードライバーと喧嘩していた。
「盗人どもが束になりやがって、むかっ腹が立つ」

窓からぶら下がり、警察へ向かって絶叫し、さらにスティレット(細い短剣)を振り回した。
彼女はマイクロミニ丈の服を着て、けばけばしい売春婦の化粧をしていた。
後ろから見れば、彼女は十代のように見えた。

労働者たちは、道行く彼女へ口笛を鳴らしたが、彼女が振り返ると、作業用の足場から落ちそうになっていた。


向こう側にはミセス・スキャノンが住んでいた。
彼女はめかしていて、金の鎖が付いた眼鏡を首から下げ、銀色のふわふわした髪をしていた。
そして、玄関ドアにビニールでストライプ柄の張り出し屋根を付けていた。
― かなり上級志向だったんだ。
「彼女は何者なんだろう?」

彼女は気まぐれに、僕ら子どもたちを褒めたり貶したりした。
ケヴィンを気に入り、彼女の通うチェスクラブへ連れて行くほどだったが、時々、彼女の態度はひどく悪く、彼女の庭にサッカーボールが入り込んでしまったときは、返してくれなかった。




第二章ここまで




2018年11月21日水曜日

TAKE IT LIKE A MAN - 和訳 ボーイ・ジョージの自叙伝 第一章

TAKE IT LIKE A MAN - 和訳 ボーイ・ジョージの自叙伝 第一章



プロローグに続き、自叙伝の第一章(チャプター1)です。
第一章は、ボーイ・ジョージの両親の馴れ初めと、ボーイが1歳までのお話しです。


ここまで手打ちでテキストを起こしましたが、第二章からはグーグルドライブで起こす予定です。
これで少しは肩こり・眼精疲労から解放される。
この章は短いので、助かりました。


Chapter 1
第一章

なんの天罰か、僕の母ダイナに傷心の出来事がもたらされたのは、イギリスより海を越えた場所、アイルランドは1958年、彼女が18歳の時だった。

彼女の最初の子が出来て、誕生したのは結婚前で、それが僕の兄リチャードだ。

このことは、ダイナの将来に問題を山積し、障壁を創り出したが、決してそれらを信じないことで、彼女は心の均衡を保った。
そうでなければ、彼女は壊れてしまっただろう。

アイルランドでは、婚前交渉はひどく軽蔑されていたんだ。
未婚の母より悪いものは、ほとんど無いとされていた。

ダイナはすでに丸9か月、妊娠を隠して過ごした。
彼女は、家族を失望させてしまうと心を痛めていた。

彼女は、もはやどんな男性も自分を相手にしてくれないと考え、たとえ好意を持ってくれたとしても、彼らは、どこの馬の骨とも知れない相手との子どもに対して、責任を取ってくれないだろうと、彼女は確信していた。

リチャードを育てることは、ダイナの母、ブリジット・グリンによって引き継がれた。
この頑固な母親(※リチャードの祖母)は、6人の娘と、2人の息子を彼女自身で育て上げ、育児に関して十分な知識を要していた。

ダイナは新聞広告で、ロンドン南東で、郊外に位置するウーリッジに住む、ウェリントン侯爵夫人の下で、住み込みの女性バーテンダーの募集を見つけ、応募した。
彼女はリチャードを育てると共に、自立するためにたくさん働いて、充分なお金を貯めようと計画したのだ。


ウーリッジは1950年代初頭から、治安の悪い、粗暴な駐屯都市だった。
新兵たちと一般人は、地元に住む女性をめぐって、しょっちゅう乱闘さわぎを起こしていた。
街路は黄金で舗装されるどころか、血塗れと化していた。

ウーリッジは、戦後の不況と、深刻な失業に陥っていたが、この状況は、ダイナが到着する時までには、少し変わっていた。


フランコ・グリン(僕の母方の祖父のこと)は、ダイナがアイルランドを離れることだけに賛同していた。
と、いうのは、彼はダイナが夜間に働くことを知っていたからだ。

侯爵夫人の私設パブは、アイルランド人で賑わい、ロンドンのウエストエンドからこぼれる、都会の歓楽街の明かりから遠く離れていた。


ダイナは朝8時から、夜11時まで働き、1週間で2ポンド9シリング稼いだ。
彼女の記念すべき19歳の誕生日は、刑務所の中で迎えた。


※訳注

ダイナが犯罪を犯した記述がないので、直訳では意味が通らない。
おそらく過酷な労働=刑務所になぞらえたものと捉える。

意訳:
彼女は囚人のように働き、19歳の誕生日は、まるで監獄の中で迎えたといっても過言ではない。

※訳注ここまで



その夜は1958年1月23日のこと、ダイナは僕の父親、ジェレミアと出会った。
彼はハンサムで、元兵士であり、彼の妹のメイに会うことを侯爵夫人に止められていたが、メイもまた、私設バーで働くバーテンダーだった。

ジェレミアは、ロンドン水道局での仕事をちょうど求めていたところだった。
彼が24歳の誕生日の時、ジェレミアとダイナは、メルによって紹介された。

ダイナの飾り気のない、細身の黒いスカートとジャンパーは、彼女の自然なブロンドの髪をいっそう際立たせた。
そして、緑の瞳に、いたずらっぽい輝きを宿していた。

ジェリー(※ジェレミアのこと)はダイナに、仕事が休みの夜に、一緒に誕生日を祝ってくれないかと頼んだ。

ジェリー・オダウドは魅力的な人物で、がっしりとした体形に、ジプシーの風貌をしていた。
ハンドメイドの靴を履き、イタリアンスタイルのスーツを着て、支払いを週ごとの分割払いにしていた。

彼はダイナを、地元にあるリッツの舞踏場へ連れて行き、メル・トーメ率いるビッグバンドをバックに踊った。
彼らは良く笑いあった。


ジェリーはもう一度会えないか、と彼女にたずねた。
「ええ、私も是非そうしたいわ」
彼女は言った。

「だけど、あなたに話しておかなければならないことがあるの」
「聞きたくない事だと思うわ」

彼女は、彼にアイルランドに残してきた子どもについて話した。

「君の過去がどんなものであろうと、俺は構わない」
彼は言った。
「君が好きだ。もう一度会いたい」


ダイナが職を失ったとき、パブの求人掲示板に並んでいたが、ジェリーの妹メイは、彼女を家に連れて行き、バレージ・ロード沿いにあるオダウド家に住まわせた。

初めこそダイナは歓迎されたが、それも彼女が子持ちであることが露見するまでであった。
手のひらを返したように、ダイナはジェリーには相応しくないと扱われた。

ジェリーは、自分の家族の道徳的な判断に、強く反発した。
いったい誰が、彼を善悪について説き伏せられようか。


ジェリーとダイナは連れ立って、プラムステッドを臨むヴィカラッジ・パークに家を借りた。

ダイナは、テート&レイル社の工場で、砂糖を梱包する仕事に就いた。
ジェリーはマチレス・モーターズに雇われ、溶鉱炉で鉄鋼の焼き入れの仕事をした。

彼は自分の家族と、何度も何度も、和解しようと申し入れたが、二人が罪と共に生きているという事実が、確執を深め、こじれさせるだけだった。


ダイナが妊娠した時、婚礼の日取りが急ピッチで進められた。
地元の司祭は、ジェリーに異議を唱え、ダイナには彼と結婚しないように説いた。
司祭は無作法者で、結婚にこぎ着けるまでは、ひどく険悪な状況だった。
さらに、司祭はジェリーに会うことを拒んだ。
司祭がジェリーの兵士としての評判を恐れているのは疑いもなかった。


打開策を見出せたのは、この状況に深く同情した別の司祭が、彼らの結婚を賛成したからであった。
結婚式の当日、ジェリーは早くにマチレスの仕事を切り上げてきた。

彼はクリーニング屋からスーツを受け取り、ウーリッジの市場にある公衆トイレに行き、身を清め、ヒゲを剃り、着替えた。

彼はダイナに、教会の外で会った。
そこには婚礼の立会人となるためにメイと、メイの彼氏もいた。

結婚して最初の年は駆け落ち同然に、台所付き(※浴室は共同)の部屋で過ごした。
ジェリーが長い時間働いたのは、苦しい生活をやりくりするためだった。
しかしダイナには、日々の孤独が積もりつもっていった。

二人目の子どもが生まれた時(僕の兄のケヴィンなんだけど)、孤独は最大限に広がっていた。
彼女は働くのを辞め、彼女の自立心は損ないつつあった。

これがダイナが招いた未来だった。
アイルランドの自らの家族には断たれ、夫ジェリーの家族が住むバレージ・ロードから追放され、本来、多くの若い母親が受け取るべき、家族の愛情と援助を奪われていたのだ。


最終的に、オダウド家が折れて、ジェリーとダイナを招待し、家族の元に引っ越して、彼の両親、ジョージとマーガレット、それに3人の姉妹ポーリーン、メイ、ジョセフィン、そして弟のデイヴィと同居することになった。

しかし、まったく快適でも、条件が良いわけでも無かった。
ただ、家族を養うにはお金が足りなかったし、選択の余地が無かったのだ。


バレージ・ロードの街並みは、第二次世界大戦の空爆の中でほとんどを失っていたけれど、辛うじて生き残っていた。
ただし、それは一時しのぎを意味することだった。
オダウド家は、ヒトラーによってサウスポート・ロードの彼らの生家を失っていた。


ケヴィンが18か月になったころ、サナダ虫による深刻な病気に罹患した。
彼はすでに、臨終の秘跡(※日本で言う末期の水)を執り行われていた。

母は、ちょうど僕を妊娠していて、恐怖に駆られ、パニック状態のまま固く誓った。
「もしケヴィンが助かるならば、おなかの子は要りません」

医者はケヴィンの容態を安定させ、少しずつ健康を取り戻していった。


もう一人赤ん坊が生まれることで、ジェリーとダイナは、バレージ・ロードの家が、耐え難いほど手狭になることがはっきりと分かっていた。
彼らはここから離れる必要があったが、それは簡単な事じゃなかった。

まともな物件は乏しく、そこへ引っ越すには長い順番待ちをしなければならなかった。
彼らが夢描いたのは、それが生家で有る無しに関わらず、自分たちだけの家を持つことだった。


1961年6月14日、僕はベクスリー区にあるバーンハースト病院で産まれた。
スピード出産で、最初の陣痛から30分もしないうちに産まれ、6ポンド13オンスだった。
(※約3090グラム)


これが僕、ジョージ・アラン・オダウドだ。
「ジョージ」は僕の祖父から、「アラン」は、おそらく母が付けたのだろう。


僕が1歳になるころに、ついに自分たちだけの家を手にした。
ベッドルームが3つの、赤レンガで出来たテラスハウスで、鮮やかな黄色のドアと、トイレは外だった。
場所はエルタムのジョアン・クレセント29番地。

その家は、母親の目には王宮のように映った。
一番には、彼女がいつでも家に電話を掛けられるという点だ。

この地所の不動産は、戦火をかいくぐって建ち続け、まだ労働者階級の憧れの地だと信じられていたので、都市計画が行われていることは、実行される数日前まで禁句となっていた。


ジョアン・クレセントは小さな道が中ほどまで続き、それから汎用道路へと変わっていた。

僕の家は29番地の、右側に曲がったところにある。


▼※参考画像



ジョアン・クレセントの、中ほどまで入り込んだ小道に続く汎用道路、赤レンガの家並み。
グーグルの地図から取ったので、最近のものです。
※参考画像ここまで


この通りは、この辺りでは最も典型的な道だった。
家も同様に典型的で、そこら中に似たような外見が林立し、まるで特売品の墓石のようだった。

その場所は、通りに面していなければ、スペースも無く、それぞれの窓には、まったく同じような網状のカーテンが飾られていた。
住人は、近所の人に負けまいと見栄を張る余裕も無く、お互い誰が住んでいるかも知らなかった。


ジョアン・クレセント辺りの光景は、まったく創造性が死滅しているかのようであった。
ジョアン・クレセントで良き1年を過ごしたあと、僕の両親は、まだアイルランドに住むリチャードを、ここに呼ぶことを決めた。

リチャードはすでに5歳になっていて、僕の祖母ブリジットにすっかり懐いており、祖母は彼を手元に置くために奮闘した。

多くの悲しみを越えて、リチャードはイギリスに連れて来られ、オダウド家の一員となった。
みんなは、リチャードが自分の身に何が起こっているか理解するには幼すぎると思い込んでいたんだ。



第一章 ここまで