TAKE IT LIKE A MAN - 和訳 ボーイ・ジョージの自叙伝 第一章
プロローグに続き、自叙伝の第一章(チャプター1)です。
第一章は、ボーイ・ジョージの両親の馴れ初めと、ボーイが1歳までのお話しです。
ここまで手打ちでテキストを起こしましたが、第二章からはグーグルドライブで起こす予定です。
これで少しは肩こり・眼精疲労から解放される。
この章は短いので、助かりました。
Chapter 1
第一章
なんの天罰か、僕の母ダイナに傷心の出来事がもたらされたのは、イギリスより海を越えた場所、アイルランドは1958年、彼女が18歳の時だった。
彼女の最初の子が出来て、誕生したのは結婚前で、それが僕の兄リチャードだ。
このことは、ダイナの将来に問題を山積し、障壁を創り出したが、決してそれらを信じないことで、彼女は心の均衡を保った。
そうでなければ、彼女は壊れてしまっただろう。
アイルランドでは、婚前交渉はひどく軽蔑されていたんだ。
未婚の母より悪いものは、ほとんど無いとされていた。
ダイナはすでに丸9か月、妊娠を隠して過ごした。
彼女は、家族を失望させてしまうと心を痛めていた。
彼女は、もはやどんな男性も自分を相手にしてくれないと考え、たとえ好意を持ってくれたとしても、彼らは、どこの馬の骨とも知れない相手との子どもに対して、責任を取ってくれないだろうと、彼女は確信していた。
リチャードを育てることは、ダイナの母、ブリジット・グリンによって引き継がれた。
この頑固な母親(※リチャードの祖母)は、6人の娘と、2人の息子を彼女自身で育て上げ、育児に関して十分な知識を要していた。
ダイナは新聞広告で、ロンドン南東で、郊外に位置するウーリッジに住む、ウェリントン侯爵夫人の下で、住み込みの女性バーテンダーの募集を見つけ、応募した。
彼女はリチャードを育てると共に、自立するためにたくさん働いて、充分なお金を貯めようと計画したのだ。
ウーリッジは1950年代初頭から、治安の悪い、粗暴な駐屯都市だった。
新兵たちと一般人は、地元に住む女性をめぐって、しょっちゅう乱闘さわぎを起こしていた。
街路は黄金で舗装されるどころか、血塗れと化していた。
ウーリッジは、戦後の不況と、深刻な失業に陥っていたが、この状況は、ダイナが到着する時までには、少し変わっていた。
フランコ・グリン(僕の母方の祖父のこと)は、ダイナがアイルランドを離れることだけに賛同していた。
と、いうのは、彼はダイナが夜間に働くことを知っていたからだ。
侯爵夫人の私設パブは、アイルランド人で賑わい、ロンドンのウエストエンドからこぼれる、都会の歓楽街の明かりから遠く離れていた。
ダイナは朝8時から、夜11時まで働き、1週間で2ポンド9シリング稼いだ。
彼女の記念すべき19歳の誕生日は、刑務所の中で迎えた。
※訳注
ダイナが犯罪を犯した記述がないので、直訳では意味が通らない。
おそらく過酷な労働=刑務所になぞらえたものと捉える。
意訳:
彼女は囚人のように働き、19歳の誕生日は、まるで監獄の中で迎えたといっても過言ではない。
※訳注ここまで
その夜は1958年1月23日のこと、ダイナは僕の父親、ジェレミアと出会った。
彼はハンサムで、元兵士であり、彼の妹のメイに会うことを侯爵夫人に止められていたが、メイもまた、私設バーで働くバーテンダーだった。
ジェレミアは、ロンドン水道局での仕事をちょうど求めていたところだった。
彼が24歳の誕生日の時、ジェレミアとダイナは、メルによって紹介された。
ダイナの飾り気のない、細身の黒いスカートとジャンパーは、彼女の自然なブロンドの髪をいっそう際立たせた。
そして、緑の瞳に、いたずらっぽい輝きを宿していた。
ジェリー(※ジェレミアのこと)はダイナに、仕事が休みの夜に、一緒に誕生日を祝ってくれないかと頼んだ。
ジェリー・オダウドは魅力的な人物で、がっしりとした体形に、ジプシーの風貌をしていた。
ハンドメイドの靴を履き、イタリアンスタイルのスーツを着て、支払いを週ごとの分割払いにしていた。
彼はダイナを、地元にあるリッツの舞踏場へ連れて行き、メル・トーメ率いるビッグバンドをバックに踊った。
彼らは良く笑いあった。
ジェリーはもう一度会えないか、と彼女にたずねた。
「ええ、私も是非そうしたいわ」
彼女は言った。
「だけど、あなたに話しておかなければならないことがあるの」
「聞きたくない事だと思うわ」
彼女は、彼にアイルランドに残してきた子どもについて話した。
「君の過去がどんなものであろうと、俺は構わない」
彼は言った。
「君が好きだ。もう一度会いたい」
ダイナが職を失ったとき、パブの求人掲示板に並んでいたが、ジェリーの妹メイは、彼女を家に連れて行き、バレージ・ロード沿いにあるオダウド家に住まわせた。
初めこそダイナは歓迎されたが、それも彼女が子持ちであることが露見するまでであった。
手のひらを返したように、ダイナはジェリーには相応しくないと扱われた。
ジェリーは、自分の家族の道徳的な判断に、強く反発した。
いったい誰が、彼を善悪について説き伏せられようか。
ジェリーとダイナは連れ立って、プラムステッドを臨むヴィカラッジ・パークに家を借りた。
ダイナは、テート&レイル社の工場で、砂糖を梱包する仕事に就いた。
ジェリーはマチレス・モーターズに雇われ、溶鉱炉で鉄鋼の焼き入れの仕事をした。
彼は自分の家族と、何度も何度も、和解しようと申し入れたが、二人が罪と共に生きているという事実が、確執を深め、こじれさせるだけだった。
ダイナが妊娠した時、婚礼の日取りが急ピッチで進められた。
地元の司祭は、ジェリーに異議を唱え、ダイナには彼と結婚しないように説いた。
司祭は無作法者で、結婚にこぎ着けるまでは、ひどく険悪な状況だった。
さらに、司祭はジェリーに会うことを拒んだ。
司祭がジェリーの兵士としての評判を恐れているのは疑いもなかった。
打開策を見出せたのは、この状況に深く同情した別の司祭が、彼らの結婚を賛成したからであった。
結婚式の当日、ジェリーは早くにマチレスの仕事を切り上げてきた。
彼はクリーニング屋からスーツを受け取り、ウーリッジの市場にある公衆トイレに行き、身を清め、ヒゲを剃り、着替えた。
彼はダイナに、教会の外で会った。
そこには婚礼の立会人となるためにメイと、メイの彼氏もいた。
結婚して最初の年は駆け落ち同然に、台所付き(※浴室は共同)の部屋で過ごした。
ジェリーが長い時間働いたのは、苦しい生活をやりくりするためだった。
しかしダイナには、日々の孤独が積もりつもっていった。
二人目の子どもが生まれた時(僕の兄のケヴィンなんだけど)、孤独は最大限に広がっていた。
彼女は働くのを辞め、彼女の自立心は損ないつつあった。
これがダイナが招いた未来だった。
アイルランドの自らの家族には断たれ、夫ジェリーの家族が住むバレージ・ロードから追放され、本来、多くの若い母親が受け取るべき、家族の愛情と援助を奪われていたのだ。
最終的に、オダウド家が折れて、ジェリーとダイナを招待し、家族の元に引っ越して、彼の両親、ジョージとマーガレット、それに3人の姉妹ポーリーン、メイ、ジョセフィン、そして弟のデイヴィと同居することになった。
しかし、まったく快適でも、条件が良いわけでも無かった。
ただ、家族を養うにはお金が足りなかったし、選択の余地が無かったのだ。
バレージ・ロードの街並みは、第二次世界大戦の空爆の中でほとんどを失っていたけれど、辛うじて生き残っていた。
ただし、それは一時しのぎを意味することだった。
オダウド家は、ヒトラーによってサウスポート・ロードの彼らの生家を失っていた。
ケヴィンが18か月になったころ、サナダ虫による深刻な病気に罹患した。
彼はすでに、臨終の秘跡(※日本で言う末期の水)を執り行われていた。
母は、ちょうど僕を妊娠していて、恐怖に駆られ、パニック状態のまま固く誓った。
「もしケヴィンが助かるならば、おなかの子は要りません」
医者はケヴィンの容態を安定させ、少しずつ健康を取り戻していった。
もう一人赤ん坊が生まれることで、ジェリーとダイナは、バレージ・ロードの家が、耐え難いほど手狭になることがはっきりと分かっていた。
彼らはここから離れる必要があったが、それは簡単な事じゃなかった。
まともな物件は乏しく、そこへ引っ越すには長い順番待ちをしなければならなかった。
彼らが夢描いたのは、それが生家で有る無しに関わらず、自分たちだけの家を持つことだった。
1961年6月14日、僕はベクスリー区にあるバーンハースト病院で産まれた。
スピード出産で、最初の陣痛から30分もしないうちに産まれ、6ポンド13オンスだった。
(※約3090グラム)
これが僕、ジョージ・アラン・オダウドだ。
「ジョージ」は僕の祖父から、「アラン」は、おそらく母が付けたのだろう。
僕が1歳になるころに、ついに自分たちだけの家を手にした。
ベッドルームが3つの、赤レンガで出来たテラスハウスで、鮮やかな黄色のドアと、トイレは外だった。
場所はエルタムのジョアン・クレセント29番地。
その家は、母親の目には王宮のように映った。
一番には、彼女がいつでも家に電話を掛けられるという点だ。
この地所の不動産は、戦火をかいくぐって建ち続け、まだ労働者階級の憧れの地だと信じられていたので、都市計画が行われていることは、実行される数日前まで禁句となっていた。
ジョアン・クレセントは小さな道が中ほどまで続き、それから汎用道路へと変わっていた。
僕の家は29番地の、右側に曲がったところにある。
▼※参考画像
ジョアン・クレセントの、中ほどまで入り込んだ小道に続く汎用道路、赤レンガの家並み。
グーグルの地図から取ったので、最近のものです。
※参考画像ここまで
この通りは、この辺りでは最も典型的な道だった。
家も同様に典型的で、そこら中に似たような外見が林立し、まるで特売品の墓石のようだった。
その場所は、通りに面していなければ、スペースも無く、それぞれの窓には、まったく同じような網状のカーテンが飾られていた。
住人は、近所の人に負けまいと見栄を張る余裕も無く、お互い誰が住んでいるかも知らなかった。
ジョアン・クレセント辺りの光景は、まったく創造性が死滅しているかのようであった。
ジョアン・クレセントで良き1年を過ごしたあと、僕の両親は、まだアイルランドに住むリチャードを、ここに呼ぶことを決めた。
リチャードはすでに5歳になっていて、僕の祖母ブリジットにすっかり懐いており、祖母は彼を手元に置くために奮闘した。
多くの悲しみを越えて、リチャードはイギリスに連れて来られ、オダウド家の一員となった。
みんなは、リチャードが自分の身に何が起こっているか理解するには幼すぎると思い込んでいたんだ。
第一章 ここまで
早くもチャプター1がUPされ、ビックリです。
返信削除ダイナさん、ずいぶんお若いときにジョージパパと結婚されたのですね。
未婚の母になった経緯はこの章では語られてないようで、少し気になりますが、
読み進めて行けばわかることなのでしょうか。
しかもジョージやパパママが住んでいた場所の地図までアップして頂き、
ありがとうございます。とても幸せです。
続き(あると信じて)を楽しみに待っています。
私もすごく気になっていて、オダウド家の長兄リチャードは、いったい誰が父親なのか、まだ書いてないんですよ。
削除あとから出てくるのか、ダイナさんは墓場まで持って行くつもりなのか。
まだ2つしか和訳していないのに、かなり踏み込んだ内容になっていますね。ジョアン・クレセントの29まで住所を書いてて大丈夫かと心配になったり。
続きは、肩こりが治ってからにします(笑)
いつもコメントに励まされています♪
異父兄でも仲は良かったのか、確か、ジョージは、兄リチャードさんの影響で
返信削除ボクシングをはじめたのかと思ってます。1983年6月のトーク番組がつべにあり、
いちばん上の兄がボクシングのヒーローで…みたいなフレーズでしゃべってます。
(あくまでも私の解釈なので、違ったらすみません。)
肩こり辛いですね。ゆっくりお風呂に入り、もみほぐして下さいませ。
匿名さん。お気遣いありがとうございます。癒されます。
削除第二章でも、ほんの少しボクシングについて触れていますね。
それにしても、第二章の長さよ、と思っていたら、後半はもっと長い章があるから、ブログ1ページに入れてしまって良いものかどうかと悩み中です。
(それ以前に、後半までたどり着けるかどうか。)
ぼちぼち手が空いた時に取り掛かろうと思います。
単に読むのと、日本語に書き起こすのでは労力が違うと実感中です。
こんばんは。
返信削除大変ご無沙汰しております。
実は時々伺っておりましたが、10月、11月と色々 家のブロック塀の建て直しや
物置を新しくしたりで なかなか書き込むことが出来ずに居りました。
いよいよ 伝記の和約をされておられるのですね。
大変興味深く思い 読ませて頂いております。
>ボーイの兄について思ったのは 母親が若くして駐留軍の兵士との間に生まれた エリック・クラプトンや フィル・ライノット(ライノット)の事です。
父親を知らず親戚をたらい回し、そんな境遇もあった様です。
あの頃の世相を表している様で胸が痛みます。
>映画 「ボヘミアン ラプソディ」昨日 やっと鑑賞しました。
昼間の休日なので若い方が多く曲も知らない様で、一寸軽く驚きました。
有名な曲は良くTVでも使われていますが、どんなバンド、人達が作って演奏したのかは良くご存知ではない様でした。時は流れる としみじみ思いました。
>ライブ エイドのDVDを持って居りますので 又見返したと思っております。
では今夜はこの辺で失礼致します。ご無沙汰致しておりました事お許し下さい。
済みません。和訳です。
返信削除Eddyさん!こちらこそ、ご無沙汰いたしております。
削除返信が遅くなり、申し訳ございません。
ねこあるきは家のことに手が回っておりません。大掃除も11月から少しずつ始めて、まだ終わらないという有様です(苦笑)
ボーイ・ジョージの自叙伝「テイク・イット・ライク・ア・マン」は恐ろしいほど長いです。終わるんだろうか、いや、終わらないだろうと自問自答しつつ、時間を見つけて手を付けるようにしています。
気長にお待ちいただければ幸いです。
著名人の生い立ちを知ると、荒んだ時代に生き、よく音楽で身を立てるまでになったと、つくづく思います。こういう形で実生活にふれると、史実としてのイギリスの経済や戦争が、よりリアルに感じられると同時に、当時を察するに余りあります。
ただ、アイルランドといえば、IRAや差別にまつわる実体的な話をあまり聞かないのは、私の不勉強が第一ですが、どう影響したのか気になっています。
一般的な問題ではないのか、あえて出してはいけないタブーなのか。
Eddyさんが挙げてくださった、フィル・リノットは特にアイルランド人である事を誇りにしていたので、見えない部分をひも解くと出てくるのかもしれませんね。
余談ですが、エリック・クラプトンは自らを人種差別主義者ではないとしながら、「Keep Britain white」を大きく掲げていましたが、何故わざわざ「 Britain」と付けたのはどういう意図だろうと深読みしてしまいました。
ボーイ・ジョージはどうなんでしょう、まだ子供時代のお話は続きますので、興味深く読み進めて行こうと思います。
Eddyさんも映画をご覧になりましたか♪
世間を見るに、新規ファンの獲得に大成功していますよね。
お若い方には、ずーっと長く聴いてもらいたいです。今はクイーンがどんなバンドか分からなくても、いつか来るかもしれない第四次クイーンブームが到来した折には、熱く語れるくらいに。
ねこあるきは永遠に新入りのポジションでいようと思います(笑)
実は、最近お見えにならないから、どうしていらっしゃるかな、と気になっておりました。お話が出来て良かったです。